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まず結論からお話しますと、現実逃避した末路は2択しかないと考えています。
その2択とは、
日常からの逃亡
もしくは、
日常の継続
です。これ以外に選択肢はありません。
現実逃避の話をしているのに、突然「日常」という言葉を使った理由としては、現実逃避という行為をしばらく続ければそれが「日常」に変わると考えているからです。
分かりやすくいうと、現実逃避を目的としてセブ島に移住したとしましょう。それは、最初は「現実逃避」でしたが、やがて「日常」へと変わっていくわけです。
なので、現実逃避の末路は、日常からの逃亡もしくは日常の継続しかないという結論に至りました。
これはあくまで僕個人の考えです。
目次
常識の妥当性は誰にも証明できない

常識とは十八歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう。
アインシュタイン
よく「逃げたらあかん」とか「逃げるな!」と自分や周囲の人を励ます光景を見かけます。僕はその度に、なぜ逃げた先に幸せがある可能性を考慮しないのか、と考えてしまいます。
それは「逃げてはいけない」ことがある種の「常識」や「普通」とされているからだと思います。
世の中には「常識」や「普通」とされていることがあまりにも多くありますが、それらの妥当性を証明できる人は存在しないと僕は考えています。
まず常識は誰が決めたかが不明

常識という言葉自体、かなりあやふやなものです。
人が「常識」という言葉を使う時は決まって、発言の正当性を強調しつつ自分の責任を回避する時だと僕は考えています。
つまり、確たる根拠はないが、こうするのが慣習とされているのだからそうすべきだということを端的に表した言葉が「常識」や「普通」だということになります。
常識を発明した人は素晴らしい人だと思います。
ライト兄弟は飛行機が人を殺すために使われるなんて考えていなかったのと同じかもしれません。そもそもの「常識」の目的は、今となっては誰にも分かりません。
常識は非科学もしくは擬似科学に過ぎない

科学に反証可能性という概念を持ち込んだカール・ポパーという人がいます。
このポパーさんという方は非常に誠実な方で、科学、非科学、疑似科学をちゃんと分けて考えたいと考えたそうです。
そのときに「反証可能性」が提唱されたそうです。つまり、反証可能性についてめっちゃ簡単にいうと、「間違っていることを間違っていると認める理論こそが科学だ」ということです。
ここで少し「常識」や「普通」について考えたいのですが、常識や普通という言葉を多用する人って、「ああ言えばこう言う」タイプが多くないですか?
人の挑戦や変化について、
- リスクが・・
- 世間が・・
- 社会が・・
- 誰々が・・・
- あれこれが・・
ポパーさんはこれらのなんとでも「言い訳できる理論」こそ非科学や疑似科学であるとしたのです。
つまり、反証可能性がない「常識」や「普通」という概念(理論)は非科学的であり、疑似科学であるということです。
常識とはどうでもいいことの総称

僕は科学者ではありません。主専攻は英文学でしたので、詳しいことやマニアックなことを突かれると反論できないです。
ただ、かいつまんだ反証可能性という概念を日常の中に組み込んで考えると、我々がいやというほど聞く「常識」や「普通」という言葉がいかにどうでも良い、信じる価値のないものであるかが分かるような気がします。
常識とUFO、宇宙人

僕はUFOを信じたい気持ちはあります。宇宙人もいるんだろうな、と考えています。だけどTVとかに出てくるUMA研究者の胡散臭さは異常ですよね。
なぜかといえば、反証可能性がないからなんです。
なんとかして言い訳やつじつま合わせで切り抜けようとする、アドホックな解決を見事に披露しています。アドホックというのは、その場限りの都合の良い解決法のことです。
常識もアドホックな解決に過ぎません。その場限りの都合の良い解決法もしくは、上述しましたが、正当性の強調と責任放棄なのです。
世界はあなたの頭の中にしか存在しない

現実逃避をしたいならすればいいと思います。
別の記事で現実逃避をするならセブ島をおすすめしていますが、ぜひセブ島に現実逃避してみてください。
[clink url=”https://cebu-standard.com/2020/01/30/escape-from-reality/”]ただ多くの方が、現実逃避するには気が引けるのではないでしょうか。
続いて、それについてまとめてみます。
世間というのは、君じゃないか
世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実態があるでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
太宰治「人間失格」より抜粋
僕は、僕の人生には誰も興味がないと思っています。
そして、あなたの人生にも誰も興味がないと思っています。
いや、あるって。就職もしたことないお前には分からないよ。
そう思われるかもしれません。
でも分かります。
あなたの人生を気にしている誰かとは、実在する誰かではなく、あなただということが分かります。
誰かが自分を笑っていないだろうか。
誰かに見下されていないだろうか。
誰かに、誰かに・・・
あなたの中の誰かがあなたを評価し、嘲笑する。つまり、あなたがあなたを笑う誰かを作り出しているということです。
いや具体的に馬鹿にされた過去があるかもしれません。
僕も高校をやめた時、散々人に笑われました。でも不思議なもので、時間が経てば誰もそんなことは覚えていないんです。
3年前の知り合いが今どこで何をしているか、把握していますか?
僕はしていません。彼らも僕が今どこで何をしているかなんてことは把握していないと思います。
変わるあなたにSNSは必要ない
SNSは一種の幻想体験です。僕はVRの簡易版とも思っています。
現実逃避をしたいということは、現状をどうにかして変えたいということだと思います。SNSは過去の遺物として、もう消すのがいいかと思います。
新しい環境でまた始めればいいのです。
もしくは、別に続けていても害悪でなければいいと思います。しかし、気になるのならアンインストールしましょう。
現実逃避の末路は2択のみ

ここまで「常識」や「普通」という概念がいかに胡散臭いもので、あなたを縛りつける世間とは実態のない妄想であったかを解説してきました。
もうこれらに縛られて消耗して生きるのはやめにしましょう。
現実逃避と聞くと、響きは悪いかもしれません。
でもそれも非科学です。あるいは、現実逃避を挑戦と言い換えてみてはいかがでしょうか。
最後にもう一度、現実逃避の末路は2択のみです。
日常からの逃亡もしくは日常の継続です。
どちらであっても、僕はいいと思います。今より少しでもよくなる方へ向かっていくのなら、僕はその現実逃避には価値があると思います。
以上、読了ありがとうございました。
また次回の記事でお会いしましょう。